第5章 彼女に謝罪を求める資格はない

「佑奈に言え。菜央が高熱で薬も飲まない。あいつの目に、娘はまだいるのかって!」

有川紘樹は吐き捨てるように言い、電話を叩き切った。

深夜になっても帰ってこないうえ、見知らぬ男と一緒にいるだと。

佑奈も、ずいぶん偉くなったものだ。

「若様……どうなさいますか」

使用人は、若様の手の中で今にも歪みそうなスマホを見て、胸が痛んだが口は挟めない。

有川紘樹はスマホを投げるように渡すと、袖をまくり、椅子へ腰を下ろした。泣き叫ぶ有川菜央の顎を押さえて口をこじ開け、薬を無理やり喉の奥へ押し込む。

「医者はまだか。水を持ってこい!」

「かしこまりました!」

使用人が慌てて水を運び、ほどなくして医者も駆けつけた。診察と処置が行われる。

菜央はずっと泣いて暴れたが、薬が効き始めると瞼が重くなり、泣き疲れた身体は有川紘樹の腕の中でふっと力を抜いた。

深夜3時過ぎ。熱が下がる。

医者はようやく息を吐いた。

「若様、お休みください。こちらは私が見ておりますので」

有川紘樹は立ち上がり、眉間を指で押さえた。娘に布団をかけ直し、部屋を出る。

書斎のソファに身を沈めた。だが、なぜだか眠れない。

頭の中で、あの男の声が何度も響く。

男は彼女を「佑奈」と呼んでいた。やけに親しげで――。

有川紘樹は寝返りを打ち、毛布を引き上げる。胸の奥に湧く苛立ちを、力ずくで押し潰した。

佑奈は自分を愛している。まともに見られたことがなくても、必死にこの結婚を繋いできた。

突然、他の男のところへ行くはずがない。

……万が一行ったとしても、別に構わない。

そもそも、この結婚で自分は感情を払っていないのだから。

結局その夜、有川紘樹は何度も寝返りを打ち、ろくに眠れなかった。

一方、菜央は熱が下がると少し元気になった。

朝、テーブルに座って牛乳をちびちび飲みながら、まだ怠そうな顔で訊く。

「パパ……ママ、もう帰ってこないの?」

有川紘樹の指が止まり、スマホを置いた。

「……ああ。気にするな」

菜央はむっと唇を尖らせる。

「べつに気にしないもん。でも、ママのごはんはおいしいのに……これ、食べられない……」

そう言って、目の前のサンドイッチを嫌そうに押しやった。

菜央にとって「ママ」は、薫おばさんには何もかも敵わないくせに、家の使用人よりはマシな存在だった。

料理はおいしい。子守歌は、必ず眠らせてくれる。

有川紘樹は数秒黙り、立ち上がって使用人に言った。

「菜央の上着を持ってこい」

「かしこまりました」

「行くぞ。外で食う」

菜央の顔がぱっと明るくなる。

「じゃあ、薫おばさんも!」

有川紘樹は娘の頭をくしゃりと撫で、久々に浮かんだ笑顔に目を細めた。

「いい。迎えに行こう」

――品芳軒。

名の知れた中華料理店だ。

予約は取りづらく、場所は栄城市の複合商業施設内、文化保護区の歴史ある街並みにある。観光客は入れず、身分と利用ランクのあるVIPのみ。

有川紘樹が連れて入ると、誰が見ても絵になる「三人家族」に見えた。

係の者が笑顔で迎える。

「若様、奥様。池の魚が見えるお席をご用意しております。こちらへ」

佐伯薫は頬を染め、有川紘樹の腕にそっと寄り、やわらかく微笑んだ。

有川紘樹は淡々と言う。

「友人だ」

「え……?」

係の者が固まり、言葉に詰まる。

佐伯薫の表情が一瞬だけ強張ったが、すぐ何事もなかったように菜央の手を取って席へ向かった。

座った途端、窓の外――門から入ってくる男女が目に入る。

白いトレンチコートの佑奈。冷ややかな気配を纏っている。その隣の男は、人を惹きつける目をした、品のある美形。

佐伯薫は眉を上げ、佑奈がふと視線を上げた瞬間、わざとらしく菜央を抱き寄せた。

「菜央、何食べたい? エビ、食べる?」

「やったー! わたし、海鮮だいすき!」

「じゃあ薫おばさんがごちそうする。大きい伊勢エビ、頼んじゃおうね」

窓越しに見えるそれは、まるで仲睦まじい母娘の一幕だった。

佑奈の足が、ほんの少し止まる。唇が静かに結ばれた。

「どうした」

川西拓海が彼女の視線の先を追い、眉をひそめる。

「……なんでもない」

佑奈は見なかったことにした。

佐伯薫に「有川家の奥様」の席は、もう譲った。今見えなくても、いずれ目の前に突きつけられる光景だ。

佑奈は隣の男を見上げる。

川西拓海。川西グループの後継者であり、彼女がランティンを立ち上げて以来の共同経営者。最近、海外から戻ったばかりだ。昨夜、彼女のアトリエで久々に顔を合わせた。

そのとき有川紘樹から電話が入ったが、佑奈はトイレで席を外していた。代わりに川西拓海が出て、菜央が熱で母親を探している、と伝えたという。

以前なら、それを聞いた瞬間にどこにいようと駆けつけた。

けれど今回は、行かなかった。

離婚協議書では、子どもは有川紘樹のものだ。本人も「ママが嫌い」と口にした。

なら、もう追いかけてまで世話を焼く理由はない。

今日は川西拓海の帰国祝いも兼ねて、ここで食事をするつもりだった。会いたくない相手に会ってしまったのは想定外だが――仕方ない。

二人が案内され、個室へ続く廊下へ入った瞬間。

正面から、佐伯薫と有川紘樹が出てきた。

視線がぶつかる。

有川紘樹の瞳が冷たく沈み、佑奈と――見知らぬ男が並んで歩く姿を刺すように見据える。

佑奈は平然としていた。まるで他人のように、そのまますれ違おうとする。

だが、佐伯薫がふいに前へ出て道を塞いだ。

「佑奈さん、偶然ですね。お友だちとお食事ですか?」

佑奈は淡く問う。

「あなたに関係ある?」

佐伯薫は困ったように眉を下げ、やさしい声を作る。

「佑奈さん、ネックレスのことでまだ怒っているのはわかります。でも、菜央が昨夜は熱でずっと辛そうで……今朝もまだ本調子じゃないんです。少し、顔を見てあげませんか?」

その声を聞きつけたのか、個室から菜央が勢いよく飛び出してきた。

佑奈を見つけた途端、目を真っ赤にして頬を膨らませる。いつものように甘やかしてもらえると思っている顔。

佑奈は動じない。

「そんなに心配なら、あなたが面倒見ればいいでしょ。娘なら、あげる」

有川紘樹の空気が一気に冷える。

佑奈は身体をずらし、佐伯薫の横を抜けようとした。

その瞬間――。

佐伯薫が、佑奈の肩にぶつけられたかのように「あっ」と声を上げ、後ろへ倒れた。

どさり。床に転がり、涙が瞬時に滲む。

もともと苛立っていた有川紘樹は、反射的に佐伯薫を抱き起こした。いつものように、考えるより先に叱責が飛ぶ。

「佑奈、いい加減にしろ。薫に謝れ!」

川西拓海の表情が強張り、口を開きかける。

佑奈が片手で制した。

彼女はもう、いつものように弁解しない。

ただ無表情のまま有川紘樹を見つめる。その視線は薄氷みたいに冷たく――かつて彼が彼女に向け続けてきたもの、そのままだった。

「……私に謝れって。あなたに、そんな資格あるの?」

有川紘樹はわずかに目を見開いた。冷たい視線が刺さり、胸の奥が妙にざわつく。

佑奈は眉を上げ、淡々と叩き返す。

「自分が誰だと思ってるの?」

こんな見え透いた芝居も見抜けない。頭の中、空っぽのクズ男。

有川紘樹は唇を一文字に結び、堪えきれず言い返そうとした――そのとき。

菜央が風みたいに突っ込んできた。

佐伯薫の前に立ち、全身の力で佑奈を押す。

「ダメママ! また薫おばさんいじめた! 薫おばさんに謝って!」

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